V10の軌跡、寬仁親王牌の経緯
Q:話を競技に戻させていただきます。中野さんの今なお輝く10連覇の記録の中、一番厳しかったレースはどのレースでしょうか?
6回目、シングルトンとのレースです。あの時は高松宮記念杯で落車後だったこともあって、コンディションとしてはいまひとつだった。
最初のころは若かったし、勢いで勝てていましたね。
※6回目はゴードン・シングルトン(カナダ)と決勝で対戦。1本目は2人ともフィニッシュ前に落車しやり直し。再走の1本目はシングルトン、2本目は中野が先着するが、シングルトンがフィニッシュライン手前で再び落車。残すは最終3本目となったが、落車の影響でシングルトンがスタートすることが出来ず、中野氏がV6となる勝利を得た。
Q:最初の頃は戦術などは考えていましたか?
全くないです。踏み出しの練習などはしていましたが、ニコルソン(※初優勝を遂げた大会の準決勝の相手)に勝った時は「あっ行けちゃった」みたいな感じでした。2回目は1回だけだとマグレとか言われるのも嫌だし、「負けたくない」という気持ちが強かったです。
Q:競技用に特別な練習はしていたのでしょうか?
特にはしていませんでしたよ。でも毎年6月には自転車が変わって、そうすると世界選手権が来るっていう気持ちにはなりましたね。
気持ちといえばですが、世界選手権に出ると出場した選手の気持ちが変わるということはありました。日本代表として出ると周りの見方が変わるし、本人の自覚も変わるし、それで強くなる人は多かったと思います。そういった選手たちとは仲が良かったですね。
Q:その選手たちは、実際にレースに出てみて中野さんの凄さが分かるといったところですか?
うーん。まあ認めてくれていたっていうのはあると思います。みんな年上でしたから。
Q:当時の世界選手権、ケイリン種目は無かったんですよね?
2回目の時にエキシビジョンレースがありました。4回目、80年のフランス大会からは正式種目になりましたが、自分は危ないから出場せず、でした。「ケイリンで何かあったらスプリントの記録が途切れるから」という理由でした。
Q:V10した後は日本ではやはり沸いていたんでしょうか?
んー。あんまり記憶にない!(笑)
Q:でも様々な人から栄誉を称えられたことは間違いないかと思いますが・・・?
うちに写真がありますが、寬仁親王牌ができた経緯として、90年の前橋の世界選手権で寬仁親王殿下にレースを説明する機会がありました。
選手だったので、失礼とは分かりつつも半袖短パンで説明したら「面白いじゃないか」となって・・・・それで寬仁親王牌ができたという経緯があります。一応自分も業界に貢献してるんですよ(笑)
結果を出せるシステムの構築 見据えるのは東京オリンピックの先
Q:東京オリンピックが今行われています。現在も自転車連盟で競技に関わっている中野さんとしては、感慨深いなどありますか?
結果が出ないとなんともですが、もうこれで8回目のオリンピックでの解説を行うことになります。その中で、不甲斐ない結果はたくさん見てきました。そして自転車連盟に関わるようになって、強化という立場になって、「どうやったら強くなれる?」という部分をずっと考えてきました。
自分も世界選手権でメダルを獲ったりしていますが、日本はこれまでほとんど「個の力」で戦ってきました。組織的にメダルを獲れていたわけではありません。
アテネオリンピックの時に若干、組織とまではいかないですが、ゲーリー(・ウェスト)が来たことによって変わった部分があります。本当はその変わった部分を根付かせなければいけなかったのですが、上手くいきませんでした。
リオオリンピックが終わって、日本人に一番何が足りないかと考えた時に、今の日本の短距離ヘッドコーチとなっているブノワ・ベトゥという選択肢があり、現体制の礎を築くことになりました。
ブノワコーチの“何が何でも勝つ”という気持ち。あの気持ちが全面に出てくるのは大事ですし、本人は恥ずかしいと思っているかもしれないけど、悔しがって骨を折るとか、そういった強い気持ちが一番だと思います。
※2016年の世界選手権で、結果に怒って机を叩いたブノワコーチの骨が折れるというハプニングがあった
ただ、この体制を今後どうやって続けていくのかを考えなければいけないわけで、正直、感慨に浸っている時間は無いです。
結果は当然出してもらいたいけれど、これからどういう形にしたら、その結果が残せるシステムを残していけるかなと。そうしないと元に戻ってしまうかもしれません。 折角ここまで来られたので、きちっとした形でわかるようなシステムを作っていかなければならないと思っています。