陸上でインターハイを制すも自転車の道へ

3/4 Page

中野浩一を変えた“世界チャンピオン”の肩書

Q:そうしてプロ競輪選手になった中野さんはデビューして18連勝するなど、数々の記録を作っていくわけですが、なぜ競技を行おうと考えたのですか?

当時、世界選手権に行くには地区プロ→全プロ→世界選手権選考→世界選手権といった流れでした。地区プロには「お前が強いから出ろ」と言われたから出場しました。

世界選手権は、最初はタダで海外旅行ができるってワクワクしていました(笑)海外に行って綺麗なお姉ちゃんが見られるかもって。興味があったんですね。

選考期間中には様々な話を皆から聞いたりするわけです。だから最初から「世界一を目指す!」というワケではなかったのが本音です。

イタリアのレッチェに初めて行った時にワインを飲んだのですが、「ええワイン?そんなの飲むの?」と思いました。そこで地ワインを飲んで「美味いじゃん!」となり、以後ワインを飲むようになりましたね。

Q:(笑)完全に観光の話じゃないですか?

前はそうだったんですよ。でも自分が1回勝ってから、自分も周りも意識が変わってきちゃいましたね。そして数年勝っていく中で、知名度とか、競輪のイメージアップとかもあり、継続してやっていくしかないなと。

Q:勝って意識が変わったわけですね?

勝って、周りから“世界チャンピオン”として扱われることになりました。でも“競輪選手”とはなかなか言われない事実もありました。

自分としては“世界チャンピオンの中野浩一”として知ってもらえるのは嬉しいのですが、同時に“競輪選手としての中野浩一”も、もっと知ってもらいたかった。それが大きかったですね。

そのためには世界でも負けてはいけないし、もちろん日本でも負けられなかったです。日本では5年連続(通算は6回)で賞金王になりました。世界チャンピオンでもあり、日本でも賞金王だ、と言えることが大事なんです。それは自分の意識の中ではずっと持っていました。

Q:その意識はいつからでしょう?

1回目に勝った後からだと思います。新聞、週刊誌やテレビだったり、やっぱり世界一になると扱われることが多くなりました。今まで会えなかった人たちと会えるようになり、話をして、実際に交流して・・・・・・

自分の中で、その代表としては山本浩二さん(広島カープの英雄。ミスター赤ヘルの名称で知られる)、野中和夫さん(元競艇選手、7冠グランドスラマー)、小野ヤスシさん(芸能人:ザ・ドリフターズ初期のメンバー:スタードッキリ(秘)報告の司会)たちです。20代前半の頃に知り合って、一緒にご飯を食べたりして、どこにでも行きやすくなったし、人脈が広がりましたね。

Q:世界チャンピオンになったことにより人脈が広がって、異なる視点からの見方が出来るようになった部分もあった、ということですよね?

そうです。最初は自分自身が世間に良く見られればいいと思っていたのですが、やっぱりきちっとした場所に行くと、自分の属している業界が認められていないと感じることがありました・・・・・。

そのような経験の中で、競輪業界を世間に認めてもらわなければならないと思いましたね。

どんなことがあっても練習は行う

Q:競輪業界に対する危機感、のようなところですね?

そうです。だから自分が作った人脈だとか、外とつながっていく人を増やしていきたかったのですが・・・それこそ総理官邸に他のスポーツ選手と呼ばれた時に、自分以外の競輪選手は練習があると言い、来なかったりしたことがあります。そういった場所で新たな人脈を築いてもらう。そのようなことを行いたいとは思いました。

正直、自分がミーハーで知らない世界に興味があったという部分もありましたが、業界のことを考えると大事なことです。

練習もして人と会うことは、問題なく出来ることなんです。自分は人との会合があっても1日に1回の練習は絶対にやっていましたし、久留米から出るので、朝5時から練習して午前中の便で空港にいって、人と会って、次の日の昼に帰ってきて、夕方練習すればサボったことにはなりません。あとは体力が続くかどうかですが、そこはたまたま大丈夫だったし、体力面でのタフな才能があったと思います(笑)

今の競輪選手の中にも外と繋がっている人はもちろんいますが、どうやってその繋がりを業界にリンクさせていくかが問題だと思います。そういった意味では、関係ないですがゴルフをやることは大事ですよ(笑)。嫌でも6時間くらい一緒に居ることになるので。

V10の軌跡、寬仁親王牌の経緯

3/4 Page