現在、男女ともにオリンピック正式種目となっている「ケイリン」。日本の「競輪」から発祥した種目だが、UCI(国際自転車競技連合)の世界選手権やオリンピックの正式種目に名を連ね、世界中の選手によって競われるまでには、ある1人の日本人選手の存在があった。

本記事では「スプリントの皇帝」中野浩一について、UCIコラム「Koichi Nakano – Emperor of the sprint」を元にお届けする。尚、元のUCIコラムは2017年4月3日投稿のものである。

生涯獲得賞金、13億2000万円

「競輪」は日本で70年近く人気を誇る公営競技だ。日本競輪選手養成所での訓練を経て選手となることができ、使用する器具などは全て厳しい基準のもとで製造されている。

「公営競技」ってなに?競輪から生まれる福祉や文化、競技との関わり

1955年、福岡県に生まれた中野浩一。高校時代は陸上競技を行っていたが、高校卒業後は過酷なことで知られる日本競輪学校(現在は日本競輪選手養成所)に進んだ。

競輪選手としてプロデビューした1975年シーズンでは、18連勝を記録。日本競輪史上におけるトップの1人となり、1992年の引退までに169開催で優勝。生涯で獲得した賞金は13億2000万円まで達した。

世界選手権で10年間連続優勝

中野は競輪だけでなく、競技でも活躍を見せ始める。

競輪選手デビューの翌年、1976年のUCI世界選手権イタリア大会(モンテローニ・ディ・レッチェ)で、初出場にして4位の成績を収めた。その後77年のベネズエラ大会(サン・クリストバル)から86年のアメリカ大会(コロラド・スプリングス)までの10大会、全大会のスプリントで優勝。世界タイトルを10年間獲得し続けた。

現在、男子スプリントのトップを争う選手はヨーロッパ諸国、特にイギリス、ロシア、フランスそしてポーランドから輩出されている。しかし1977年から86年は、後にも先にも類を見ない形で1人の日本人選手・・・「スプリントの皇帝」中野浩一が、一時代を築いていた。

日本の競輪から世界のKEIRINに

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