13年ぶりの復活、KEIRINグランプリ2019

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「見たか慎太郎、あの脚!」

Q:「子どもの頃から」というお話が出ましたが、お父さんに連れられて競輪を観ていたんですよね?

そうです。家が競輪ファンの溜まり場みたいになっていました。みんな集まって競輪談義をしているような家でした。親父も、おじさんも、近くの人たちがみんな集まって……滝澤がどうのとか、井上がどうのとか、そんな話をしていました。

Q:子どもの目線から、競輪をどんな風に見ていましたか?

「競輪選手ってこんなにもスターなのか」と思いましたね。みんなが集まっては競輪の話をしていて、強い選手の話、賞金の話、色々聞いていました。人を惹きつける、すごい職業だなと思っていました。

Q:かなりプラスの印象だったんですね。

はい。たまに家の前を競輪選手が練習で走っていたんですが、それを親父が見つけて、俺に「バイクの後ろに乗れ!」と。それでバイクで追いかけて、何故か選手に向かって「頑張ってください」と言わされていましたね(笑)

親父は競輪にすごく詳しい人でした。「見たか慎太郎、あの脚!お前もあれくらいの脚にならなきゃ速く走れねえぞ」なんて言われたり。当時はまだ競輪選手になるなんて決めていなかったんですけどね。

Q:お父さんの影響が良い結果につながりましたね。

そうですね、体を鍛えるのが好きでした。小学生の頃から友達と一緒に「腕立て伏せ何回できるか」と勝負したりとか。自転車でゴールを決めて、そこまでもがくとか。そういう遊びをしていました。自分の成長を楽しめるというか、トレーニングが苦じゃない人間らしいなということには、中学生の時に気づきました。

体を鍛えるような仕事に就ければ良いなあと思っていて、「それって競輪選手じゃねえの?」と考えましたね。

チームパシュートに出場した高校時代

Q:周りに競輪選手はいました?

いませんでした。でも進学した高校はインターハイ常連校だったので、「ここでやれば全国で戦える選手にはなれるんじゃないかな」という思いはありましたね。2つ上の先輩で、世界選手権に出場した人もいました。

Q:記録によると、高校ではチームパシュートに出場となっていますが……。

はい、インターハイでチームパシュート3位。昔はゼロヨン(400m速度競走)というものがあったんですが、それが国体で8位でしたね。

Q:ゼロヨン、馴染みのない種目ですが……

横一列に並んでスタートして、よーいドンで1周する競走です。国体種目でした。これで優勝すると技能免除で競輪学校(現:日本競輪選手養成所)に入れたんですが、残念ながらビリでした(笑)

Q:中長距離種目のチームパシュートもやっていたのは、意外です。

当時の先生が「短距離選手だろうがなんだろうが、チームパシュートを走れないやつは個人種目には出場させない」という主義だったんです。「個人種目で勝ってもメダルは1つだけど、チームパシュートで勝てば4つもらえるだろう」と。

Q:みんなで喜びを分かち合う、ということでしょうか。

そうですね。チームパシュートの4人のうち、自分ともうひとりが短距離向きの選手でした。だから「俺たちがいなければもっと良い記録が出たんじゃないかな」とは思いましたね。でも個人種目でインターハイや国体に出るからには、チーム種目で結果を出して、みんなの平均点で枠を取って大会へ行こうよ、ということでした。

ウサイン・ボルトにマラソンの練習をさせて、駅伝に出るようなもんですよ。無茶ですよね(笑)それで全国3位になった俺もすごかったなと思います!

考え方が古いと言えば古いですし、かなり根性の練習をしていました。だから今、きつい練習をしたとしても、そこまできついとは感じません。精神的にとても成長させてもらいました。正直、効率はあまり良くなかったなと思いますけど……。

Q:無茶な練習が普通に行われていた時代ですもんね。

夏は100km走らされて、1年生は水1滴も飲めませんでした。死んじゃうよ!と思うけど、思い返すと死んだやつはいなかったですね。

こんなに充実感に満ちた仕事は他にあるだろうか?

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