←Vol.1「二度と歩く事は出来ない、それが事実」
“最強のチャンピオン”クリスティーナ・フォーゲル。そのチャンピオンはどのようにして生まれたのか。
「私が産まれたのはキルギス。生後6ヶ月の頃、ベルリンの壁が壊され、両親がドイツへ渡ったそうです。私が自転車を始めたのは2000年(10歳の時)です。たまたま貼ってあったポスターが格好良かったんですよ。最初は親友と自転車に乗り始めました。ロードレースから始めたんですが、2004年にトラック競技へ転向しました。ロードレースでは全然良い選手じゃなかったので、トラックへ転向して良かったです」
クリスティーナ・フォーゲルは1日に何本も走れる脅威的な体力、圧倒的なスピードを生み出す脚力、勝負へ勝つための精神力・・・その全てがスプリンターとして花開かせる才能を持った選手だ。
最強の苦しみ
「トラック競技に転向してからは短距離種目の選手になりました。だから、ロードレースからトラック競技へ転向して良かったんです。ロードレースで登りのあるコースや、レース距離の長いクリテリウムでは上手く走れなかったことに理由があったんです。トラック競技へ転向した当初から、私の心は短距離種目にありました。それに私のトラック競技での最初のコーチが、私の才能を見出してくれていました。だからこれまでの私があるのだと思います」
フォーゲルはトラック競技に出会い、そして恋に落ちた。それは間違いないだろう。2012年のメルボルン世界選手権でのチームスプリントを皮切りにタイトルというタイトルを総ナメしていった。ただ、そんな彼女の脳裏に刻まれたレースは、どれであったのか。
「10年以上ジュニアの時代も含めて世界選手権で戦ってきているので、様々な記憶があります。でも強いて挙げるなら2013年のミンスク(ベラルーシ)で行われた世界選手権は印象に残っています。あの大会ではレベッカ・ジェームズ(イギリス)に破れ、スプリントで2位でした。あの時はとにかく精神的に落ち込みましたね。世界チャンピオンになる準備が出来ていたと思っていた矢先に鼻を折られたんです。次のシーズンではレベッカが着ている虹色のチャンピオンジャージを見るたびに“あの時ミスを犯したから、私はこのジャージを着れていないんだ。もっと強くなりたい”と思っていました。
次の2014年、ゾン・ティエンシー(中国)との対戦が激しかったのも覚えています。でもあの大会は初めて短距離種目で3冠(スプリント・ケイリン・チームスプリント)を獲った大会でした。忘れられません。
もちろん2016年も覚えています。オリンピックのスプリント決勝。相手は再びレベッカ・ジェームズ(イギリス)でした。これは本当に難しいレースでした。まず予選の200mタイムトライアルでレベッカよりも遅かったこと、それに加え、2013年の世界選手権での負けがいつも頭に付いて回っていました。でも勝つことができたのは、私があの大会で一番、最も金メダルを欲していたからだと思います。サドルが落ちたのに勝ったとか、人々は嬉しい物語を描いてくれますよ。
あとは今年、2018年の対ステファニー・モートンも厳しい戦いでした。あの勝利で私の世界タイトルは11個目となりましたが、年月を重ねる毎に勝つのは難しくなっていくんです。誰もが私を警戒し、私が負けるところを見たいと思っていたのではないでしょうか?皆が私を倒すためにレースへ参加していました。2016年のシーズンからスプリントでは負け無しだった私ですが、その状態をキープするのは大変なんです。
だからあの大会は、特に決勝は人生で最も難しかった、最もプレッシャーの掛かったレースだったと言えます。自分からも周りからもプレッシャーが掛かっていましたね」