鮮烈なプロデビュー、病気との闘い
アマチュアのロードレースにおける実績を見出されたコンタドールは、2003年に20歳でオンセ・エロスキからプロデビュー。同年に伝統あるツール・ド・ポローニュで、新人ながらもステージ優勝を飾り、ペドロ・デルガド(1988年のツール・ド・フランス覇者)の再来と呼ばれた。
若手の星と期待され、順調にプロとしてのキャリアをスタートしたが、プロ入り2年目の2004年、最初の波乱がコンタドールを襲う。
5月のレース中に突然意識を失い落車。診断の結果、脳幹部の海綿状血管腫が原因と判明した。すぐに病院で緊急の開頭手術をして、一命を取り留めたが半年間の入院生活を余儀なくされた。一時は選手生命どころか日常生活に支障をきたす恐れのある難病だったが、無事に完治。翌年の1月に早くもレースに復帰して優勝を飾り、驚異の回復力を見せた。
完全復活と思われた矢先、翌2006年の8月に出場したレース後、またも突然の失神で路上に倒れる。診断の結果は2年前の病気の後遺症。大事をとり、このシーズンはそのままレースに出場することなく終了した。
難病を克服し、2007年にようやくレースに復帰。長い闘病生活を支えてくれたのはランス・アームストロングの記した癌との闘病記だとコンタドールは語った。アームストロングといえば現役中に発覚した癌を克服し、レース復帰後にツール・ド・フランス7連覇を達成した選手として、当時は病に打ち勝ったアスリートの象徴であった。
後にアームストロングはドーピングを告白し、ロードレース界の汚点の象徴となる。そしてまた、彼に勇気づけられたコンタドールもドーピング疑惑の渦に巻き込まれていくのは運命のいたずらかもしれない。
驚異のグランツールでの実績
二度目の選手生命危機より復帰したコンタドールは、その後は病気が再発することもなく、2007年から本格的にレースへ出場する。
そして次々と勝利を重ね、出場したグランツールでは歴代2位となる6大会連続での個人総合優勝に輝いた。キャリア通算でグランツールをそれぞれ3回ずつ、合計9回の栄冠を手にしている。これは歴代3位の偉業である。
ロードレースの選手を評価する指標に勝率はない。しかし、敢えてコンタドールのグランツールでの勝率を考えれば、現役時代に18回出場し9回の個人総合優勝を遂げており、実に勝率5割を誇る。また、18回のうち14回が5位以内という安定感は、他選手の追随を許さない。
しかしコンタドールの選手としてのキャリアの前半は、当時のロードレース界に蔓延していたドーピング問題に翻弄されていた。そして、ここまでに挙げた記録の一部も剥奪という憂き目を見ている。
中には本人とは関係のないチーム事情での障害という不運もある。もし(レースの世界に“もし”は無いが)競技へ集中できる環境があったとしたら、どのような記録を積み上げていただろうか。
ドーピング疑惑に翻弄される
話を2006年へと戻す。この年、コンタドールを悩ませたのは、8月から始まった闘病生活だけではなかった。5月にロードレース界を揺るがした、ドーピング摘発作戦「オペラシオン・プエルト」に巻き込まれてしまう。
スペインの国家警察が大規模に行った捜査により、多くの関係者が逮捕されたが、その中にコンタドールが当時所属をしていたアスタナ・ウルトの監督も含まれていた。コンタドールにもドーピングの疑いがかけられ、出場停止処分が下される。直後に事実無根とされ、処分は解除されたが、このことはその後も続くドーピング疑惑の始まりであった。
2007年は体調も回復。ディスカバリーチャンネルへと移籍し、心機一転しレースへ復帰する。そして、すべてを振り払うように、ツール・ド・フランスで初の総合優勝に輝いた。これで選手としての未来が開かれると思った瞬間、レース翌日に再びドーピング疑惑が浮上する。今度はドイツの警察が入手したリストにコンタドールの名前が書かれていたのだ。結局、この疑惑も事実誤認とされた。
2008年からはチームアスタナへ移籍しての始動となったが、またしてもドーピングに翻弄される。チームが前年度に大きなドーピング問題のあったため、主催者がジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスに招待しないことを決定。コンタドール本人とは別の理由でグランツール出場が阻まれた。
ところがジロ・デ・イタリア開催の一週間前に急遽チームが大会に招待される事が決定。バカンス中のコンタドールも出場することとなった。コンディション調整不足に加え、第8ステージで落車し左腕の橈骨(とうこつ)にヒビが入るアクシデントに見舞われながらも、見事に個人総合優勝へと輝く。当時のコンタドールは無敵の存在であった事を証明する結果だ。
しかし、かねてからのドーピング疑惑でついにコンタドールへ処分が下される。2010年のツール・ド・フランスで2年連続3度目の総合優勝に輝くも、後にドーピング違反が認定され、タイトル剥奪。ドーピング検査による検出量は極めて微量であり、食肉を摂取した際の汚染だとして自身の関与を否定したが、裁定は覆らなかった。
パワーメーター使用へ対する批判
近年のロードレースはデータで管理され、レース中のすべてがコントールされている傾向がある。特に山岳コースでは、選手はパワーメーターのワット数を確認しながら走る。トップチームが集団内で一定のワット数を保ちながら走れば、他チームはそれ以上のパワーを使ってアタックを仕掛けることがない。そのことでレースが退屈なものになり、まるで機械のようだという批判もある。
そんな現状を憂いたコンタドールは、レースでのパワーメーターの使用禁止を訴えた。パワーメーターの存在が、選手による感情的なアタックを阻害しているという理由だ。
この背景には、コンタドールがこれまでに何度も突発的なアタックを仕掛け、勝利を手にしていた事がある。2012年のブエルタ・ア・エスパーニャでは、総合争いで劣勢に立つコンタドールが終盤の第17ステージで意表を突く攻撃的なアタックを何度も繰り返し、最後には大逆転で総合優勝に輝いた。レース後に「カミカゼみたいに走れた」とコメントし、本能による感情的なアタックは見る者を感動させ、ファンの脳裏に焼き付いたはずだ。
ツール・ド・フランスの現王者クリストファー・フルームは個人総合で大きくリードをしていても、一番警戒する選手はコンタドールだという。何をしてくるか予想がつかないからだ。この“何かしてくる期待感”こそが、レースを面白くする要素であるのかもしれない。
「これが僕がのレースなんだ」と語るコンタドール。そこには、パワーメーターに支配されるレースへ対する批判の意味が込められているのだろう。