ミラクル続き、開き直り

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「選ばなかったこと後悔させてやりましょうよ」

Q:シドニーに落選して心が折れかけた・・・とはいうものの、競輪選手だから無理をして競技をやらなくても生活はできたわけですよね。どういう形で「もう1回」と思えたのですか?

シドニーの選考会の後、アジア選手権があったのですが「残ったメンバーで行ってくれ」みたいな感じだったんですね。だから僕は行きたくなかった(笑)

でも伊勢崎彰大(千葉・81期)くんに「選ばなかったことを後悔させてやりましょうよ」と言われて、僕も乗せられちゃって「そうだなー、行くか!」みたいな感じで出場しました。

そしたら、チームスプリントもケイリンもスプリントも全部優勝。日本人が表彰台をほぼ独占して、「これがオリンピックだったらなー」と思ったり・・・それがきっかけで「やっぱり競技って楽しいな」と思えました。

Q:勝ったことで「もう一度」の気持ちが湧き上がってきた、ということでしょうか?

それもありますし、「見返してやりましょうよ」が強かったです。日本の競輪で活躍して「選ばなかったことを後悔させてやりましょう」とも言ってくれたんですよ。そして悔しさと見返してやろうっていう気持ちが、選考会から1ヶ月ほどの時間が経ってからやっと出てきました。それまでは呆然として、何をしていても楽しくなかったです。

辛い時期の期間は覚えていますが、嫌な記憶だったので、当時の心境がどんなものだったのかはすでに忘れちゃいましたが(笑)

どんよりとした気持ちは忘れましたけど、選考会で代表者の名前が呼ばれたその日の夜に、一緒に選考会に行った後輩2人と宇都宮の街中で大酒を飲んで、次の日に二日酔いながらもすかいらーく(現ガスト)に行ったことは覚えています(笑)

伏見俊昭

Q:伏見さんが日本代表だった時、日の丸を背負うプレッシャーはありましたか?

やっぱり、日本代表として行きますので、「国民みんなの気持ちを背負って走る」と思いましたし、自転車競技だったら競輪選手の代表として行くわけですから、恥ずかしくないパフォーマンスをしなければいけない。そういう圧力はありました。その時は本当に夜も眠れないくらいのプレッシャーでした。そのプレッシャーは北京の時が1番感じましたね。個人枠でしたし、アテネの時とは全然違っていました。発走機に立った時のことを考えると不安で仕方ありませんでした。

オリンピックは2パターンの選手のみ

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