伏見俊昭 インタビュー

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ミラクル続き、開き直り

Q:アテネオリンピックでは緊張していましたか?それとも先ほどおっしゃったように開き直ってましたか?

その前のシドニーオリンピックの選考会で落選していたので、オリンピックでの初レース、1本目(予選)は緊張しました(笑)。長塚くんのダッシュがとにかくキレッキレだったので「そこに追いつくぞ!」という気持ちで発走機に立ったのを覚えています。そしてレースは1組目だったんですけど、フィニッシュ時に凄いタイムが出たんです。

オリンピックだし、バンクも軽かったので、2組目からもバンバンタイムが出るのだろうなって思っていたら・・・・

「あれあれあれ?」って。

予選の全チームが走り終わった時点で、3位でした。次で対戦チームに勝ったらメダル圏内。その次の1回戦でオランダに勝って、1〜4のメダル決定戦へ進出となりました。

最終結果としては銀メダルでしたが、そもそも総合的なタイムで見たら2位ではなかったんです。ですので運の要素も働いて決勝まで行ったんですね。今考えるとミラクル続きでした。

伏見俊昭

Q:ミラクル続きで、オリンピックの決勝まで行ってしまったんですね(笑)

井上くん(当時の第3走)が腰をやっちゃって、本番前まで治療を続けていました。本来なら不安になるところですが、逆に開き直ってましたね(笑)

僕と長塚くんは笑っていました(笑)逆にいじって3人がリラックスして笑っているような感じもありましたし、その中でのあのタイムでしたから、本当にミラクルだったんですよ。

そんな状態だったので、逆に不安要素はなかったです。緊張とリラックスと。まあとにかく「最大限のパフォーマンスを出そう」という気持ちだけで舞台に立っていた。余計な邪念がなかったのが良かったのかもしれないです。

Q:予選3位で通過した時の気持ちは?

ロードでクールダウン中、長塚くんとゆっくり話しながら「あれ!?これありますよ!」とか言ってたんですよね。全然周りがタイムを更新していかなくて。

長塚くんは「やばい!」って感じで興奮していたんですが、ゲーリーが「(喜びを)抑えろ!抑えろ!」って言っていました・・・

でも結局一番興奮してたのはゲーリーでした、僕は見逃しませんでしたよ(笑)

振り返ると「楽しかった」って思えますね。「今、日本中が沸いてるな」と思ったら楽しみで仕方なかったです。決勝ではタイムどうのこうのっていうよりは、スタートのミスだけはしないように、それだけ心がけていました。終わってからは「もうちょっと行けたな」とか「ギアかけとけば良かったな」とか、そういう悔しさはありましたが・・・・。

伏見俊昭

Q:メダルを獲った影響はどのような感じでしたか?

テレビ出演もさせてもらいましたし、街中で声をかけられるようにもなりました。日本でKEIRINグランプリ獲っても知名度ってなかなか上がらなかったですが、オリンピックのメダルとなると全然違います。本当に一気に知名度が上がりました。オリンピック、そしてメディアの力はすごいなと改めて思いました。

Q:ということは出発前は・・・?

そうですね。出発する時は空港に来てくれたのも今のMore CADENCEのようなメディアぐらい、もちろんテレビなんて一切いなくて、いたとしても他の競技への取材でした。でも、帰国して成田空港に着いたら、僕たちを取材するメディアの人だらけになっていました。

別室に連れていかれて、取材が何件も来て・・・成田空港の中だけでどれくらい時間かかったのかわからない位です。到着前から「取材が来る」とは言われてたんですけど、一体何件あったのでしょうね。

フラッシュもすごかったです。あれは気持ちよかったです(笑)よくあるフラッシュの中での取材、みたいな光景そのままでした。花束とか貰ったりもして、ちょっと一躍”時の人”って感じになりました。

Q:そうなると、やはり次へのモチベーションにつながるんでしょうか?

もちろんです。「個人競技はまた格別なんだろうな、4年後の北京はケイリンだ」と思いました。

当時の自分は、競輪も競技も充実してましたし、自分のそういう感情に関しての疑いはなかったですね。

アテネで変わった「出るだけ」からの「メダルを獲る」

オリンピックは「出るだけでいい」という人もいれば、「出ただけじゃ物足りない」という人もいます。「自分はメダルを獲りたい」というよりは「オリンピックに出たい」の気持ちの方が大きかった。アテネ五輪に関しても、メダルが取れるなんてそこまで自惚れた気持ちはなかったです。

振り返れば、まず競輪選手になりたくてこの世界入りました。競技の方でタイムが出たので、ナショナルチームに推薦してもらって・・・で、国際大会を体験させてもらえるようになって、そうなっていって、「オリンピックに出たい」という気持ちになりました。

で、シドニーで落ちて、アテネにはどうしても出たいと、「オリンピックに出ることだけを目標に頑張ろう」と思いました。直前の世界選手権でもそこまで調子は良くなかったし、出られただけで十分、8年越しの舞台だから「最大限のパフォーマンスを出そう」と思ってアテネを走りました。

Q:そして、メダルを獲りましたね。

メダルを獲ったことによって、次の北京は「北京オリンピックに出る」よりも「北京オリンピックでメダルを獲る」の気持ちの方が強くなってしまいました。そういう気負いからか、自分の実力不足なのか、結果は空回りして全くダメでしたけど(苦笑)

Q:北京の時は肋骨の怪我もありましたし・・・(※大会のおよそ2か月前に落車で骨折)

たらればになってしまいますが、もうちょっと違うパフォーマンスができたのではないかと思ってしまいます。とはいえ「メダルメダル!」と気負いすぎたのはありましたね。

1次予選でも敗者復活戦でも、地に足が着いてないような感じで。ゾーンに入りきれなかったです。

伏見俊昭

Q:アテネのような状態で北京に行けていたら・・・というのはありますか?

体をリフレッシュした状態で、良い精神状態で北京を走れていれば・・・と思うことはよくあります。「心技体」とよく言いますけど、どれか1つ欠けてもダメですね。

Q:そういった経験から、伏見さんにしかない学びがあったと思います。そういった学びは後に競輪に活きましたか?

自転車競技をやっている上で、オリンピック以上の舞台ってないと思うんですよ。どんなにKEIRINグランプリが凄くても、オリンピックの舞台にはかなわない。そう考えれば、KEIRINグランプリもリラックスして走れた、ということはありました。

シドニーで落選した悔しさは、僕の中では人生で一番悔しかった出来事。様々な挫折を味わってもあれ以上の苦しさがないので、どれだけ失敗しようが怪我しようが、立ち直ることができました。

Q:そういう精神的な成長は「オリンピックを目指す過程、そしてその舞台でしか感じられないことを経験したから」ということですが、やっぱりナショナルチームに入らないと得られないことでしょうか?

ナショナルチームに入ってその中で切磋琢磨して、限られた枠を何人かの選手で競い合うわけですけど、それを活かすも殺すも自分次第だと思います。それを活かせる選手は開花するでしょうし、ダメで腐っていく選手もいるでしょう。プラスに変えていってもらいたいですよね。

シドニーの時、僕は24歳でした。当時は本当に心が折れそうになって、競輪選手を辞めたいくらいでした。そこまでメンタルも強くなかったし・・・でも立ち直って、次を目指せるようになりました。それも恵まれた環境にいたなと思います。

「選ばなかったこと後悔させてやりましょうよ」

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