世界選手権でのメカニックの仕事

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「この勝利の何%かは僕のもの」

Q:この仕事をしていて悲しかったこと、嬉しかったこと、やりがいなどを教えていただけますか。

森:僕は自分が走れなくなって、それでも自転車に関わりたくてこの仕事についています。だから自分の触った自転車で選手が勝ってくれると、「この勝利の内の何パーセントかは自分のもの」みたいな気分になって、すごく嬉しいです。もちろん一番頑張っているのは選手だということはここでお伝えしておきます(笑)

齊藤:選手が成績を出してくれた時は嬉しいですし、他の国々のメカニックやスタッフと知り合えることは楽しいです。悲しいのは、自転車は仕上がっているのに、選手が体調不良などで走れない時ですね。

壊れたものが直る喜び メカニックの仕事

Q:森さんのバックグラウンドをお聞かせください。

森:もともと機械いじりが好きでした。でも子どもはバイクや車をいじることができないので、自転車に手を出しました。小学生くらいの時、買ってきた自転車をその日にバラして組み立てたりしていましたね。それが自転車に関わる始まりで、乗ることも好きになりました。

中学生の頃からは、カバンを積んでサイクリングを始め、高校に入ってから自転車競技部に入部。体力的には劣る部分があったのですが、トラック競技では少しだけ良い成績を出せました。1000mで国体や都道府県で2着、インターハイでは1着を取り、その後実業団に入ってから当時の日本記録を出しました。でも日本一を決める大会、全日本選手権では1着を獲ったことはありません(笑)

所属した実業団が大阪の自転車部品のメーカーだったので、選手引退後もそこでテクニカルサポートをしました。中野浩一さんの10連覇を支えた長澤さん(自転車フレームビルダー/ナガサワ・レーシング・サイクル代表)の元で、勉強をさせてもらっていました。

当時はまだプロ・アマが分かれていた時代でした。プロ・アマがオープン化されたのは中野さんが10連覇を成し遂げた後くらいでしたよね。その頃に日本プロフェッショナル自転車競技連盟(通称:プロ車連 1995年にアマ・プロの自転車競技連盟が合併し、現在の日本自転車が発足した)のメカニックとして4年ほど勤めており、2年ほどは完全に任されて、プロの世界選手権にメカニックとして帯同しました。その後10年ほどブランクを経て、独立しました。

Q:幼少期から自転車をバラしていたというお話でしたが、それは誰かに教わっていたのですか?

いえ、子どもに良くある好奇心からですね。子供が家の時計をバラバラにするなんてことは見たことがあると思うのですが、それをやると叱られるので、自分の持ち物でやっていました。だから幼少期の「好き」が現在の仕事に繋がっています。ただ、今は仕事なので100%「楽しい」とは言えません。壊れていたものが直ること、それによって良い成績が出ることはもちろん嬉しいですが、仕事としての義務感、緊張感が常にあります。

Q:齊藤さんの自転車に関わったバックグラウンドはどういった経緯なのでしょうか?

齊藤:中学の頃から自転車には乗っていたのですが、姉に「高校には自転車競技部があるよ」と教えてもらって、自転車競技部がある高校に進学しました。今はもう無くなってしまった高校で「機山工業高校」といいます。山梨県の甲府にありました。先輩たちは部活で強かったですね。僕は競技場でトラックレーサーにも乗っていましたが、競技で結果を出しているかと聞かれたら、そんな事はありません。そのあと、練馬にある”プロショップ タカムラ製作所”という自転車ショップに高校の時の2つ年上の先輩が居たこと、そしてショップの職人さんが独立するため、ポジションに1人空きが出たと聞いて、そこに入れたという感じです。

Q:森さんのように自転車をバラバラにした思い出などはあるのでしょうか?

戻せる程度に何かをバラした思い出はありますが、物は戻せなくなると困りますからね(笑)森さんのような、自転車をバラすといった思い出は、小さい頃のものとしてはないですね。

かつては選手だった2人は、メカニックという立場から全力で選手をサポートし、世界へと送り出す。HPCJCメカニックの2人がサポートしてくれているからこそ、選手達は毎回安心してレースに挑めるのだろう。

HPCJCのスタッフ陣へのインタビューは続きます。今後もご期待ください。

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