夢は儚く散った
ナショナルチームの男子チームスプリントは『2019-20シーズントラックワールドカップ第4戦』で1日に2度の日本記録更新をし、16年ぶりの金メダル獲得を成し遂げた。日本チームはアテネ五輪で銀メダルを獲得して以来、ずっと超えられなかった壁を乗り越え『2020世界選手権トラック』で東京オリンピック出場枠を手にする戦いへ挑んだ。
しかし世界選手権での結果はまさかの予選敗退。メダル獲得も視界へ捉えながら臨んだ日本チームは、目前で東京オリンピック出場権を失った。
雨谷一樹
雨谷一樹は長年に渡り、日本ナショナルチームのチームスプリント第1走主力選手として戦い続けてきた。しかし世界選手権での結果から日本がチームスプリント出場枠を逃すと同時に、雨谷のオリンピック出場の夢も消えてしまった。
2020年6月4日、日本ナショナルチームはオリンピック代表内定選手を発表。その日に雨谷は自身のインスタグラムで自転車競技からの引退を表明した。
10年近くの年月ナショナルチームで過ごした雨谷一樹が感じたこと、競技の魅力、これからの人生などMoreCADENCEが独占インタビューでお送りする。
最後の大会『世界選手権トラック2020』
Q:2019-20シーズンはワールドカップでもメダルを獲得し、すごく良いシーズンだったと思います。
シーズン序盤は自分にとって苦しい時期でした。でも後半になるにつれ、チームとしてのコンディションも上がり、金メダル獲得にも至りました。
世界選手権では油断というか「これまでに出したタイムを出せればオリンピックに行ける」という様な甘い気持ちがあったと思います。それがタイムが伸びなかった理由かな、と。
ブノワ(・ベトゥ短距離ヘッドコーチ)からも「3人とも自信を持ちすぎた」と言われました。本当にその通りで、勝つつもりで行ったのに空回って真逆の結果になってしまいました。チーム競技なので誰が悪いということはなく、1人1人の結果があのタイムでした。仕方がありません。
Q:世界選手権が最後の大会となりました。どのような経緯で自転車競技引退を決意したのでしょうか?
出るにしても出られないにしても、東京オリンピックを最後に(競技を)引退することは決めていました。またスタンディングスタートに関して、最初の半周の際の自分の体の感覚や反応が、若い時と比べて鈍くなっていることを実感していました。自分の体に限界を感じたことも、引退理由のひとつです。
最後の世界選手権は「これ以上ない」というくらいの仕上がりでした。その感覚をもってしても限界を感じてしまって。
世界選手権で自分のタイムは17秒7でした。あまり良いタイムではありませんが、それまでの過程には満足しています。もちろん結果に対して悔しい気持ちはありますが、きちんとやることは全部やった、やりきったと思っています。頑張ってきたことを、これからは競輪に向けようと思っています。
引退を決めた時
Q:引退を決めたとき、ナショナルチームのメンバーに話したりはしたんでしょうか?
最初に話したのは河端さんだったと思います。毎日ご飯を食べている仲なので、その中で話をしました。
Q:その時はどんな反応だったんですか?
軽い感じで返されましたね(笑)チームメイトに話してもそんなに重くはならなかったです。
ナショナルチームのグループLINEで「引退します」と報告した時、深谷(知広)が個別で返信してくれました。
それが「今までお前とやってきたことが・・・」みたいな内容で、ちょっと感動しました。あんまりそういうこと言わないタイプだから。
Q:涙は出ましたか?
いや、涙は出てないですけど・・・あ、出たって言った方が良かったですか(笑)?
喜び方すらよくわからなかった
Q:これまでで最も印象に残ったレースは?
金メダルを獲ることができたニュージーランドでのW杯(2019-20シーズン第4戦)のレースです。それまで優勝をしたことがなかったので、喜び方もよくわからなかったです。でも表彰台からの景色はよく覚えています。一番上に立って「このために頑張ってきたんだ」って感じました。
逆に悪い意味で印象的だったのは、同じく2019-20シーズンのアジア選手権。「チームスプリントの強化を続けるかどうか、それをこの結果で決める」と言われていたにもかかわらず、大会ではタイムを出せませんでした。
悔しかったし、ブノワコーチにもすごく怒られました。印象的なレースでしたし、コーチにあんなに怒られたことは初めてでした。
あと4年「すべて」をかけた生活を続けられるか
Q:「オリンピック」は雨谷選手にとってどういうものですか?
そもそもオリンピックへ出るために競輪選手になったんです。オリンピックのためにずっと頑張ってきました。自分の「すべて」でしたね。
オリンピック出場への戦いは3回経験していて、その中でも1番想いが大きいのが東京オリンピックでした。1日1日を無駄にできない状態が続き、その積み重ねが最後の最後(金メダルを獲ったW杯第4戦)に出たんだと思います。無駄な日はないと思って過ごしていました。
Q:サッカーをやっていたことや、オリンピックでメダルを取った長塚さん(※1)、十文字さん(※2)に憧れて自転車を始めたことなどを以前にも聞かせていただきました。そこまでオリンピックへの強い気持ちがあって、「あと4年」とは思わなかったんでしょうか?
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※1 長塚智広:茨城出身の元競輪選手。アテネオリンピック チームスプリント銀メダリスト。
※2 十文字貴信:茨城支部所属の競輪選手。アトランタオリンピック1kmタイムトライアル銅メダリスト。
「あの環境で、あの精神状況であと4年いられるか」と考えると、厳しいと思いました。「オリンピックのために」という環境なので、家族の時間をはじめとした様々なものを犠牲にします。
ブノワコーチは1人1人のことをよく見ていて、どんな気持ちでやっているのかをすぐ見抜きます。「オリンピックのために」という気持ちがなければいられない場所です。自分にはそんな環境が当たり前になっていました。でも、いきなりあの場所に放り込まれたら「息苦しい」となる人はいると思います。そういう場所です。