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自転車競技におけるプロ・アマオープン化

藤根俊貴 KEIRINグランプリ ヤンググランプリ

日本では戦後の復興期に競輪が誕生し、自転車で生計を立てるプロフェッショナルの分野が確立。それ以前に『日本自転車競技連盟』が結成されていたが、『日本プロフェッショナル自転車競技連盟』と区別をつけるために1957年に『日本アマチュア自転車競技連盟』へ改称されている。

しかし各種スポーツのプロ・アマオープン化の流れを受け、自転車競技では、まずUCI(国際自転車競技連合)に変化が起こった。1992年『FIAC(国際アマチュア自転車競技連盟)』と『FICP(国際プロフェッショナル自転車競技連盟)』の統一が発表。UCIはこれまでこの2団体の中間に立つ役目だったが、プロ・アマがUCIに統合されることとなった。

その後日本でも1995年にプロ・アマの両連盟が統合され、現在の公益財団法人日本自転車競技連盟Japan Cycling Federation(JCF)となっている。

「世界の中野」とオリンピック

JCF理事 選手強化委員長 中野浩一氏

プロ・アマの垣根によって生じた、ひとつの事例をご紹介しよう。

1977年から1986年にかけて、スプリントで世界選手権10連覇を成し遂げた中野浩一氏。中野氏の活躍もあり、1980年にケイリンが世界選手権の正式種目として採用され、2000年のシドニーオリンピックからはオリンピック正式種目として採用されている。スプリント10連覇の偉業から「ミスター競輪」「世界の中野」とも呼ばれ、のちに紫綬褒章まで受賞しているが、オリンピックには出場していない。

当時”プロ”の競輪選手であった中野氏は、オリンピックへの参加資格がなかったのだ。
自転車競技のプロ選手がオリンピックに参加可能となったのは1992年、中野氏が現役を引退した年だった。

オリンピックに出ることなく現役を引退した中野氏。しかしオリンピックでのケイリン初開催である2000年シドニー大会にて、ケイリンのペーサー(先頭誘導員)として参加、異なる形でオリンピックへと「出場」した。中野氏は現在競輪のコメンテーターとして活躍する一方、JCF理事トラック委員会委員長として選手の育成に関わり、オリンピックへと選手を送り出している。

1996年、アトランタオリンピックとKEIRINグランプリ

1996年のアトランタオリンピックにて、十文字貴信氏が1kmTTで銅メダルを獲得した。競輪選手として初めてのオリンピックでのメダル獲得の快挙で、この成績により十文字氏はKEIRINグランプリ1996への出場権を得る。十文字のプロ競輪選手デビューは1995年なので、グランプリ出場は異例の速さだったと言える。

現在でもKEIRINグランプリの選出基準には「オリンピック個人種目でのメダル獲得」が含まれている(オリンピック開催年などの条件による)。これもまた、プロ・アマの垣根がなくなったからこその相互作用のひとつだろう。

2019年に引退した十文字氏は、現在はラーメン屋を営む。競輪選手も来訪する人気店だ。

出典・参考:ジャパンナレッジ「自転車競技
日本オリンピック委員会「自転車競技
JKA採用情報サイト
コトバンク「中野浩一
日本オリンピック委員会「十文字貴信
KEIRIN.jp「競輪Q&A