12月22日、2025年シーズンをもって、競技からの引退を発表した小原佑太。
2019年にナショナルチームのメンバーとなって以降、国際大会で素晴らしい実績を残し、短距離の中心メンバーとして活躍してきた。
オリンピックの舞台で感じた熱狂、チームスプリントのメンバーと交わした言葉、世界を転戦するなかで得た価値観、そして競輪選手としての現実。
人生の節目に立ついま、小原が振り返るナショナルチームでの日々と、その先に見据える未来とは。
率直な胸のうちを語ってもらった。
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オリンピック・チームスプリントで刻まれた記憶
Q:まずは、ナショナルチームでの一番の思い出を聞かせください。
やっぱり……オリンピックのチームスプリントですね。
メダルのチャンスがあった分、すごく悔しかったという印象が、今でも強く残っています。
Q:具体的には、どんな場面が印象に残っていますか?
予選の時点で、自分たちが想定していたタイムをしっかりクリアできて、「これはメダルを狙える」と感じていました。でも、結果としては1回戦で敗れてしまった。そこからの気持ちの切り替えが、すごく印象に残っています。
自分の中では、「せっかくここまで来たんだから、日本記録を出して帰りたい」という気持ちがありました。そんな中で、(太田)海也が「最後、日本記録を出して帰りましょう」と言ってくれた。自分と同じ気持ちを持っていたことが、本当に嬉しかったですね。「自分ひとりのチームじゃないんだ」と、あらためて実感できた瞬間でした。
あの言葉で力を出し切ることができて、5-6位決定戦では予選の記録を上回るタイムを出すことができました。「皆でここまで頑張ってきたんだな」ということを強く感じました。あの場面は、ずっと心に残っていますし、これからもずっと色褪せないと思います。
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あの熱狂は、もう二度と味わえない
Q:やはり、オリンピックという舞台は特別でしたか?
そうですね。あの熱狂は、もう二度と感じることは無いだろうなと思います。
地元の階上町からもたくさんの激励メッセージをいただいて、日本中から応援されているという実感がありました。そういう意味でも、本当に特別な舞台でした。
Q:「もう一度挑戦したい」という気持ちにはならなかった理由は?
正直に言えば、もう一度あの熱狂を味わいたいですし、本当はメダルを取って「みんなのおかげで頑張れた」と伝えたかったです。
ただ、オリンピック以降、チームスプリントで少しずつ海也から離れてしまう場面が増えてきてしまい、今年1年は「まずは海也から離れないこと」を最優先に考えていました。自分のタイムが上がれば、次のオリンピックでメダルを狙える。そう信じて、今年は他の種目には出場せず、チームスプリントの強化に集中しました。でも、『ネーションズカップ』と『世界選手権トラック』で思うような走りができなかった。それが、自分の中では一番大きかったです。
世界選手権に懸けた覚悟
Q:太田海也選手についていけなかった理由について、自分なりの分析はありますか?
『ネーションズカップ』の時は、精神的に少し浮き足立っていた部分があって、それが結果に出たと感じています。ジェイミー(・ダグラス/S&Cコーチ)やジェイソン(・ニブレット/短距離ヘッドコーチ)とも話して、「不安要素はスタートだけ。そこさえ改善できれば良いタイムで回れる」という共通認識がありました。なので、スタート強化のために筋力アップを優先しました。
実際、去年に比べて筋力はかなり上がりました。ただ、その分体重も増えて、体の使い方を変える必要が出てきた。でも自分は不器用なので、頭では分かっていても、それをレースでうまく表現できなかった。結果として、増えた筋力をうまく使い切れなかったのかな、と思います。
Q:体重はどれくらい増えたのでしょうか?
パリオリンピックから、今年の世界選手権までで5kgほど増えました。
体脂肪率はほとんど変わっていませんでしたし、練習ではしっかりつけて走れている感覚もあった。だからこそ、『世界選手権』には「もしこれで海也につけなかったら、ナショナルは辞める」と決めて臨みました。
今思えば、自分にプレッシャーをかけすぎていた部分もあったのかもしれません。
いま競輪に集中しないと、後悔する
Q:オリンピックへの想いがある中、その決断は難しいものだったのではないでしょうか?
そうですね。未練はあります。でも、ここで競輪に集中しないと後悔すると思ったんです。
ナショナル勢の中で、自分は競輪でなかなか結果を残せていませんでした。先ほども話しましたが、自分は不器用なので、鉄フレームとカーボンで乗り方を切り替えるのが得意ではなくて。歯がゆさや悔しさをずっと感じていました。
仮に次のオリンピックまで競技を続けて、そのあと競輪に専念するとしたら、32歳からの再スタートになります。自分のタイプを考えると、体の使い方を切り替えるのに時間がかかる。結果が出始めるのは33歳以降になると思いました。
Q:競輪選手としては、30歳を過ぎてから結果を残すというのは遅くないようにも感じます。
そうですね。でも、その頃にG1の決勝に残れたとしても、(北日本の)味方がいないんじゃないか。そう考えたときに、いまシフトするべきだと思ったんです。これまでG1やG2のレースを走ってきて、北日本の自力選手は、近畿と比べるとどうしても層の差を感じていました。選手の人数自体は北日本も多いんですけど、自力で戦っている選手という点では、どうしても差がある。だからこそ、ここからどう戦っていくかを、ちゃんと考えなきゃいけないなと思いました。
Q:北日本を強くするという意味でも、自分が戻る決断をした?
そうですね。脚を強化するという点では、ナショナルの練習は本当に理にかなっていると思います。自分がいま競技から離れて、その経験を若手や、これから競輪選手を目指す大学生・高校生に伝えていければ、北日本としても盛り上がっていくと思うんです。そうなれば北日本にもチャンスが増えるし、それは結果的に自分にとってもチャンスになる。そういう思いも、今回の決断の中にはありました。
今年の目標をクリアできなかった悔しさはありますけど、それを機に、競輪の方にしっかりシフトしても良いのかな、と思えた部分は大きいです。
