創業は大正10年より前。正式な記録は時の彼方に追いやられていた。100年以上の歴史を誇る「ときわや食堂」は大仁駅近隣で営業をしていたが、この度、2023年9月をもって、その歴史に幕を下ろすことになった。
店内にはそこかしこに自転車競技のポスターや競輪のグッズなどが置かれ、一歩中に入ればこの店にどのような人たちが来るのか容易に想像がつく。
日本ナショナルチームの選手たちにとって、伊豆に住み込むようになってからは、その名の通り「食堂」として身体作りを支えてくれた地元の味。ナショナルチームとの関わり、そこから生まれた絆など、この記事では「ときわや食堂」から生まれた物語をお伝えする。
「東京2020オリンピック」の延期に伴い……
右:原千枝子さん(料理担当)
左:原千賀子さん(その他全般担当)
Q:お店の長い歴史に幕が下ろされれたわけですが、そのきっかけを聞かせてください。
千枝子さん:2023年9月の末で営業許可の期間が切れたので、営業を続けるためには再度更新が必要でした。私は82歳になり、体調も優れない箇所も出てきてしまったので、潮時かなと思ったんです。
本当は「東京2020オリンピックまで」と決めていたんですが、1年延期されることになりまして……
千賀子さん:東京2020オリンピックが延期されたので、お店の営業も延期することにしました。その後、営業許可の期間が切れる日を新たな延期期日に決めました。期間を更新するという選択肢もありましたが、母(千枝子さん)の体に負担をかけたくないと思ったんです。体が動かせるうちに母自身にやりたいことをやって過ごしてほしいと思いました。60年も頑張ってきたので、今後は好きなことを楽しんでほしいです。
「私が代わりにお店を営んでは?」という声もかけていただきましたが、私は母のサポートとしてずっと母と2人でやってきたので、新しい人と上手くやっていける自信もありませんでした。
本当はパリ2024オリンピックまで頑張りたかったのですが、今回の営業許可の有効期日までとさせていただきました。
自転車競技の選手もそうですが、地元の常連さんにも申し訳なく思っています。近くの工場勤めの方達にもご来店いただいていました。工場が禁煙になったらしく、タバコを吸われる方のために店の外の敷地内に喫煙スペースを作っていて、事前にメニューとご来店される時間を聞いておくんです。その時間の少し前に来て一服すると、ちょうど料理が出来上がります。そして食後にもう一度一服して工場へ戻られる、みたいな。
Q:それは、サービスが良すぎでは(笑)?
千賀子さん:そうかもしれません(笑)
選手の来店をきっかけに知った「自転車競技」
千賀子さん:お客さんの中には、このお店に来ていただける自転車選手のことを見てから、自転車競技を観戦したり応援してくれる方もいました。
近所にも自転車競技や競輪に詳しい方がいらっしゃいます。初来店の選手が来てくれた時に、「今来ていたのはあの選手だよ」って教えていただいたり(笑)
東京2020オリンピック中は観戦チケットの抽選に当たってレースを見に来ていた方にもご来店いただきました。
千枝子さん:本当に色んな方に来ていただきましたね。
千賀子さん:ある新聞では私たちが「選手は家族」と誌面で伝えていました。「親戚のおばちゃんみたいな存在として、選手たちがくつろげるような場所を提供したい」とインタビューに答えたら、それが飛躍して「選手は家族」になっていたのでびっくりしました(笑)。本当のご家族の方に申し訳なく思ったのを覚えています。
千賀子さん:選手が来てくれたおかげで、自転車競技や競輪について知ることができました。
最初は”自転車競技”と”競輪”は一緒だと思っていました。でもケイリン(※日本の”競輪”と競技の”ケイリン”も似て非なるものになっている)の他にも色々な種目があることを知れましたね。
1つ面白い思い出があって、何の大会か忘れてしまいましたがオムニアムのポイントレースをお店のテレビで見ていたことがあったんです。ちょうどお客さんが入ってきたので慌てて接客していたら、お客さんに「競輪ですか?レースが終わってからでも大丈夫ですよ」と言われたんです。そのお客さんはポイントレースを知らなかったようで、競輪みたいに3分くらいで終わるものだと勘違いしていたんです。「お客さん、この種目はあと20分くらい続きますよ」と伝えたら驚いていました(笑)
創業から2度の「東京オリンピック」を経験
Q:本当にたくさんの方々が来店されたと思います。この店は大正10年に創業されたとお伺いしました。
千枝子さん:大正10年にはもうお店があったことは確かですが、それ以前にいつ創業されたかはもうわかりません。
Q:創業のきっかけがもし分かれば教えていただけますか?
千賀子さん:私のお父さんのお婆さんが創業したと聞いています。ですが創業した経緯は記録も残っていないので、わからないんです。
千枝子さん:最初は場所も違ったみたいです。石油とかも手に入らない時代でしたから、七輪でうちわを仰ぎながらお店を営んでいたみたいです。最初のうちは食堂としてもそうですが、接待業も行っていたみたいです。私が22歳の時に食堂一筋のお店に変わりました。昭和38年のことなので、東京1964オリンピックが開催される1年前ですね。それから約60年続けてきました。
Q:メニューも変わってきたのでしょうか?
千枝子さん:初めは私の義母が作ったメニューで営業していましたが、途中から私がメニューを変更したりしました。ソーキそばなどもありましたが、定食の方が人気で定食中心のメニューになりました。
千賀子さん:最近のお客さんにお蕎麦や麺類も昔はメニューにあったと言うと驚かれましたね。定食屋というイメージが定着したようです。でも昔から利用していただいていた地元の会社さんなどからは、年末の年越しそばの発注をいただくことがありました。メニューにはもうお蕎麦はないので、「あれ、お出汁はどうやってつくるんだっけ?」と一瞬戸惑ってしまうこともありました(笑)作っていないとやはり難しいです。