2023年に開催された「UCIパラサイクリング ワールドカップ」ハンツビル大会(アメリカ)。本大会に日本ナショナルチームとは別に、個人参加として挑む3人がいた。田中祥隆選手、コーチの野口一成*氏、通訳の案浦攻*氏だ。

実はこの3人は「元競輪選手」。なぜ「パラサイクリング ワールドカップ」にて元競輪選手の3人が集い、個人エントリーとしてレースに挑戦したのか。

※ワールドカップ アメリカ大会時、野口氏・案浦氏は別選手のコーチ・通訳として同行

前編では田中祥隆選手に、パラサイクリング選手になったきっかけや、「ハンドサイクル」という種目について話を伺った。

田中祥隆プロフィール

福岡県・81期として1998年に競輪選手デビュー。しかし練習中の事故により下半身麻痺の障害を負い、2013年に選手を引退を余儀なくされる。

引退後に車椅子マラソンや車椅子バスケットボールなどのパラスポーツに取り組み、2024年現在はパラサイクリング(手でペダルを漕ぐハンドサイクル(Hクラス))の選手として活動。

2021年2022年の全日本パラサイクリング選手権(ロード・個人タイムトライアル)で表彰台に登り、2022年に個人エントリーとして、自身初のUCIワールドカップ(カナダ・ケベック大会)出場を果たすこととなる。

障害の種類、度合いによってクラス分け・・・パラサイクリングってどんなもの?

競輪選手からパラサイクリストへ

佐々木悠葵, 寺内大吉杯決勝, KEIRINグランプリ2023, 立川競輪場

Q:まずは田中選手が競輪選手になったきっかけを教えてください。

父親が熱狂的な競輪ファンでした。父親と一緒に競輪を見ているうちに、「カッコ良いな」と思い始めました。出走表に書かれていた賞金額も、職業として競輪選手を目指したきっかけの1つです。元々野球部員だったこともあり、プロスポーツ選手に憧れていて、当時カッコ良く見えた競輪選手を目指すことに決めました。

Q:事故に遭われた時のことを教えてください。

自分が事故に遭ったと自覚できたのは、事故から1〜2週間後ぐらい。意識がはっきり戻るのにそれぐらいの期間を要しました。「もう競輪選手には戻れません」とお医者さんに言われましたが、1年ほどの入院期間でリハビリに努めながら、動ける範囲で自分でもできるスポーツを探していました。

最初は車椅子バスケット、ハンドサイクル、車椅子陸上。まもなく車椅子陸上に本格的に取り組むようになりました。ですが10年間ほどで伸び悩み始めたんです。そんな中、クロストレーニング*として取り組んでいたハンドサイクルに競技としての魅力をより感じるようになりました。

※クロストレーニング:複数の種目の運動を積極的に取り入れる練習法。(コトバンク

「プロスポーツ選手への憧れ」「日本代表選手との出会い」

田中祥隆選手, JPCF提供

Q:「プロスポーツ選手に憧れていた」と競輪選手を目指すきっかけをお伺いしました。事故後でもパラスポーツをすぐに探し、実際に始めたことにも、プロスポーツへの憧れが影響しているのでしょうか?

はい。「スポーツ選手を続けたい」という思いと、「できればもう一度競輪選手に戻りたい」という思いがありました。しかし現実的に競輪選手に戻ることは難しかったので、「違うスポーツで日本代表クラスの選手になる」という夢を抱きました。

Q:「違うスポーツ」の中で、最初に車椅子マラソンを始めたきっかけは?

入院していた病室が4人部屋だったのですが、同室に入院していた渡辺勝さんという方がリハビリとして車椅子マラソンを始めていたんです。昼休みなどにレーサー(競技用車椅子)で走る姿に魅了されました。退院する時、どうすれば車椅子マラソンの選手になれるのか電話で尋ねたところ「日本代表の洞ノ上浩太さんと練習するから、そこへ来てください」と言われ、練習を見学できることになりました。

すると見学日の翌日、洞ノ上さんと一緒に練習していた松本さんという方が、使わなくなったレーサーを私のために持ってきてくれて、すぐに練習できる状態になったんです。

機材が必要になるスポーツですし、すぐに始められるとは正直思っていませんでした。車椅子マラソンに興味を持っている私を、初めから応援していただき、とても始めやすかったのを覚えています。渡辺さん・松本さんは、現在チームメイトとして一緒に活動している方々です。

Q:車椅子マラソンを始めることに対する周りの反応はどうでしたか?

スポーツに再挑戦することに皆さん肯定的で、とても応援してくれました。

寝そべり手で漕ぐ「ハンドサイクル」

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