メダリストの軌跡として坂本勉さん伏見俊昭さん永井清史さんを紹介してきたが、やはり自転車と言えば誰もが思い浮かべる“この人物”に触れないわけにはいかないだろう。

ミスター競輪と呼ばれ、自転車界ではムッシュ中野として今なお尊敬を集める日本が生んだスーパースター、中野浩一。 意外にも中野氏が選手として経験していないのが、現在開催中の世界の祭典“オリンピック”。前人未踏の記録を残した自転車界の重鎮が過去、そして未来を語る。

中野浩一

中野浩一

JCF理事 選手強化委員長 中野浩一氏

プロフィール
・1955年11月14日生まれ(65歳)
・世界選手権男子プロスプリント種目10連覇(1977~1986:ギネス記録)
・競輪賞金王通算6回(史上最多)
・KEIRINグランプリ初代覇者
・現JCF理事であり、トラック競技の委員長を務める日本が生んだスーパースター

身近だった競輪 幼少期の環境

Q:中野さんはご両親が競輪選手だったとのこと。当時の競輪選手の社会的な立ち位置はどのようなものだったのでしょうか?

はい、父も母も競輪選手でした。競輪は凄く身近な存在でしたね。両親が競輪選手になったのは、一気に5000人ほどが競輪選手になった創世記の時代です。

家が競輪場付近だったこともあり、学校にいけば競輪選手の子どもはたくさんいました。初期に競輪選手になった人は大体同じような年代なわけで、そうすると選手たちの子どもも同じような年齢です。ですからどのクラスにも、選手の息子や娘がいましたね。父が練習に行くときに付いていって、競輪場で遊んでいたことを覚えています。

Q:「高校卒業間際から自転車に乗った」と経歴でよく目にしますが、もっと前からやっていたということですか?

いや、連れていってもらっていただけで、別に練習はしてないです。ちょろちょろしていただけで(笑)

Q:そのような環境ならば、自然と競輪選手を目指すような気がしますが・・・

中学校の時、よく一緒に遊んでいた先輩が競輪選手になると聞いて「危ないし競輪選手なんて嫌だよな」なんて先輩の弟と話をしていた記憶はあります。親が傷だらけになって帰ってきて、そんな姿を家で頻繁に見るわけです。加えて、朝早くから練習したり・・・大変なんだなと。

ただ、一回外に行って帰ってくると現金をたくさん持って帰ってくる(笑)そこは良いところだとは当時から思っていましたね(笑)

だから見方によっては良い部分、それとやっぱり嫌だなあという部分、その両面を子どもの頃に見ていました。親が競輪選手で最終的に選手にならなかった人は、「親に落車が多かった」という部分があると思います。

およそ50年前の競輪のイメージ

寛仁親王牌・世界選手権トーナメント 2020 前橋競輪場

Q:当時の競輪のイメージはどうだったのでしょうか?

競輪が世間から注目されるのは「何か問題があった時」。そんな時代でもありました。

そんな時代背景もあるのか、父は職業を問われると競輪選手とは答えず「自由業」と書いていました(笑)まぁそれはそれでかっこいいと思っていましたね。

競輪選手になる時には、同級生から「お前競輪選手なんかになるの?」と言われ、「“なんか”ってなんだよ、見てろよ」と答えた記憶はあります。

選手として現役の頃は「『自分の仕事は競輪選手だ』と書きたいので、皆さんに認知してもらわなければいけない」とよく言っていました。

Q:プロの競輪選手になった理由は「稼ぐ」ですか?

そうですね。要は稼いでやる!ですね。頑張れば、結構良い暮らしができる。父が競輪選手だったこともあって、どの程度稼げるかも分かっていました。

家には車があったし、小学校3年生くらいの時(およそ55年前)、まだまだクーラーが珍しかった時代にクーラーもありました。

陸上でインターハイを制すも自転車の道へ

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