ミスター競輪 中野浩一

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陸上でインターハイを制すも自転車の道へ

Q:高校の時、インターハイを400mリレーで優勝していますね。100mのタイムはどれくらいだったんでしょうか?

11秒です。でもそれよりも速い選手がチームに居ました。チームメートがいるから個人種目だと学校で3位、そして県大会でも3位でした。

Q:陸上でオリンピックを目指していたとか?

まあ夢としては持っていましたが・・・・・・

Q:そこからどうやって自転車が出てくるのでしょうか?

高校3年生の春にトラックにはねられました。その時は大した怪我じゃないと思っていたのですが、たぶんそれが原因で肉離れが起きました。それで春の大会に出られなくなって・・・。

夏の大会ではほぼ治ったと思っていたのですが、再び肉離れの影響が出て、試合には出たものの負けてしまったんです。

そのようなことがあった後、先生との進路相談がありました。就職する気はなかったので、選択肢としては「大学進学」です。しかし陸上部のキャプテンが中央大学に進学を決めていて、先生から「お前“も”中央に行くか?」って言われて・・・「も」っていうのが引っかかって(笑)

「それは絶対嫌だ」と。

後で当時のキャプテンから「俺のお陰で・・」みたいな恩を着せられる可能性もあるから、絶対に嫌だと。じゃあどうするとなった時に、当時ジャンボ尾崎さんが活躍していたこともあり、ゴルフをやりたいと思ったのですが、その前に「自転車に乗ってみんか?」と父から言われたんです。

バンクに行って、当時の支部長を紹介されて練習開始。でも始めて2日目に、1kmを1分21秒で走れたんですよ。当時は競輪学校の1次試験の合格タイムが1分23秒だったこともあり、先生に「俺、競輪選手になります」って言いにいきました。そしたら「良いんじゃないか、頑張れ」と。

そこから競輪学校の試験までは2か月ほどしかなく、加えて父からは試験を受けるのは1回だけと言われていたので、2か月間、真剣に練習しました。1週間後に自転車を変えて走ったら1分17秒で、そのあと試験前には1分12秒まで出ましたね。

競輪選手になると決めてからは朝練習にいって、就職活動という名目で学校に遅刻していました(笑)「先生就職活動していました!」と伝えると大丈夫なのですが、他に“ちゃんと”遅刻する人がいると一緒になって立たされるんですよね(笑)

まあ、そんな話は置いておき、タイムをみて「息子さん強いじゃないですか」とか父に話している先輩が居たりして、当時は自分の中で基準も何もなかったので「俺、結構速いんだ」と思いました。それで「じゃあ一生懸命やるか」と。

当時の日本競輪学校

日本競輪選手養成所第117・118回卒業式

Q:競輪学校はその当時どうでしたか?厳しかったですか?

入る前からとにかく厳しいと聞いていたし、実際、教官が「あのカラスは“白い”」と言ったら「はい“白”です」と返事をするような文化でした(笑)

夜中の1時に全員起こされて「全員着替えて校庭へ」と言われ、外に出て腕立てをさせられるということもありましたね。 「なんでこんな時間に?」と隣の生徒に聞いたら「どうやら校長先生に挨拶しなかったやつがいるらしい」って(笑)それで全体責任だと言われたなあ・・・だから厳しかったのは間違いないですね。

周回練習で遅れると教官から降ろされて、他の人が終わるまで自転車を持ち上げていなければならなかったし、最後には「ケツ出せ」と言われて竹刀でピシャリ。お尻がいつもミミズ脹れしている感じかな。

ここは強調しておきますが、“当時は”ですよ。今は違います。

Q:お仕置き用の竹刀がいつも?

ありましたね。まあ客観的に考えると厳しい環境だったんでしょうね。

Q:在校時は一番速かったのでしょうか?

卒業試験のタイムが分かり易いと思うのですが、ミュンヘンオリンピック代表だった松田隆文さんが同期にいて、1番。1kmが1分8秒でした。自分は2番目で、1分11秒くらいでした。

中野浩一を変えた“世界チャンピオン”の肩書

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