メダリストの軌跡・坂本勉編

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2度目となるはずだったオリンピック

Q:ロスオリンピック出場は、およそ40年前となります。その時の心境を教えて下さい。

当時はプロ・アマが分かれていた時代で、プロはオリンピックへ出場できませんでした。

「プロ・アマオープン化」オリンピックにおける歴史を解説

当時、私は大学生。「スポーツをやっている以上、一生に一度はオリンピックに出てみたい」と思う気持ちがありました。

実は、高校3年生の時にモスクワオリンピック代表に選ばれていたんです。オリンピック代表の選考大会に出られる権利があって、たまたま選考大会で上位になって、合宿を経て代表になりました。「オリンピックに出る」という意識は少しもなかったですね。

当時は「えっ?オリンピック?雲の上の存在だったのに」と思ったのですが、選ばれると何かこう・・・意識が変わって「あっ自分でも出られるんだ」と思ったことを覚えています。

結局走る機会は得られなかった(※)のですが、それで、オリンピックに「出たい」と意識が変わりました。その4年後、1984年がロスオリンピック。当時はプロになってしまうとオリンピックに出られなかったので、大学に行ってオリンピック出場を目指し、そして目的を果たしました。

※1980年、当時の東西冷戦の影響でアメリカがモスクワオリンピックへのボイコットを表明。日本政府も同じく参加をボイコットし、日本からの出場選手が「0」になった。

周囲からのプロ入りの反対

坂本勉

Q:なんとそのような経緯が・・・・・

そうなんです。メダルを獲る前から「大学を卒業したらプロの競輪選手になる」という考えでしたが、先にオリンピックでメダルを獲ってしまったので、「メダル獲得後にはプロにならない方が良い」と言う方がたくさん出てきました(笑)

Q:それは何故ですか?

その当時はいくら大学(アマチュア)で強い強いと言われても、誰一人として大成した実績がなかったんです。ましてオリンピックのメダリストになってしまったので、失敗したら肩書に傷をつけることになる。そのため「プロにならない方が良い」と言う人の方が多かったですね。

それで自分も悩んで・・・本当に競輪学校(現:日本競輪選手養成所)の願書の締め切り当日まで悩みました。結局はプロになることを決めたのですが、郵送だと間に合わなくなってしまったので、大学の監督と一緒に、当時の自転車振興会(現:JKA)に赴いて手渡しで提出しました。

半強制的に始めさせられた自転車競技

Q:元々競輪選手になることを夢みていたのでしょうか?

自分の兄(坂本典男さん:1959年生まれ/競輪選手)が自転車をやっていて、さらには自転車が盛んな県ということもあったと思います。

青森の国体があった時に、うちの兄を応援しに家族でいって、そこで初めて自転車競技を観て「こういうスポーツがあるんだ」と中学3年の時に思いましたね。当時は野球をやっていたし、親父が国鉄(現在のJR)で働いていて、祖父も国鉄で働いていたので、自分も国鉄で働くことになるのかと思っていました。

でも兄と同じ高校に進学したところ、兄が国体で優勝したこともあったのでしょうが、自転車部の先生から「お前は自転車をやれ」と半強制的な感じで自転車を始めることになりました(笑)ひどい話です。

まあそのお陰でモスクワオリンピックには2人で代表に選ばれたのですが、結果的に日本が大会をボイコットすることとなって、兄はプロ競輪選手になりましたね。

ですから元々競輪選手になろうとは思っていなかったですが、結果としては、兄の影響もあり「なりたい」と思っていました。

人生逆転、オリンピック効果

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