2010-20 トラックワールドカップ第1戦』でワールドカップ初参戦となったルーキー、小原佑太。2024年パリ五輪での活躍を期待される彼はロンドンで行われたSix dayに出場し、タイトなスケジュールで初のワールドカップを迎えていた。

大学時代の怪我、憧れの選手と練習する日々、Six dayを経て感じた「日本の自転車をメジャー化する必要」、そして猫好きのエピソードなど、今後の成長に目が離せない彼にググッと迫る、ロングインタビュー。

小原佑太プロフィール

Photo by Alex Davidson/Getty Images

1996年生まれの23歳、青森出身。高校時代から自転車競技を始める。2019年7月にデビューし、同年12月にはS級2班に昇級。大学時代にナショナルチームに所属していたが怪我が原因で一度はナショナルチームから外れ、再び舞い戻った。2024年パリ五輪での活躍が期待されている若手選手。

23歳にして手術経験3回・・・一度は諦めたオリンピックへの道

Q:ナショナルチームで活動していますが、もとからオリンピックを目標としていたのでしょうか?

大学3年生の時に一度ナショナルチームに入れてもらっていたことがあり「オリンピックも狙えるなら狙っていこう」という考えではありました。でもその年に膝をやってしまい、入院しているタイミングにちょうどブノワコーチが就任しました。その時に選手選考があり、自分は見てもらえるチャンスがなくてそのままナショナルから外れてしまいました。

膝をやった後にヘルニアにもなりました。大学4年の国体が10月にあって、それが終わってからヘルニアの手術をし始めました。

まず12月にレーザー治療を一度やったんですが、それで調子が好転することもありませんでした。4月に競輪学校(現:競輪選手養成所)の事前入学があって、それまでになんとかしたい気持ちはあったのですが、なんだかんだでそのまま時間が過ぎて4月になり、事前入学の1週間前になって立つのもしんどいくらいに左足が痺れてきたんです。その頃福島の大学病院の先生が青森に来ていたので見ていただいたところ「手術しないと厳しい」と言われました。

手術後、リハビリなしで競輪学校(現:競輪選手養成所)に入学

事前入学前に手術をすることは時間的に厳しく、結局事前入学の後、3日後くらいにすぐ手術をしました。本当なら1週間くらいで退院できるはずだったんですが、手術を受けて4日ほどたった頃、手術箇所に血腫(血の塊)ができてしまったんです。それを取るためにもう一度手術をすることになって、結局退院まで2〜3週間かかり、結果的にリハビリを全くしない状態でみんなと一緒に5月に入学することになってしまいました。

体重も(事前入学の時点から)5、6キロ落ちてたと思います。そこからあんまり調子も戻らなかったですね。8月の夏帰省の前くらいにちょっと調子が良くなったな〜というくらいで。夏頃から本格的に練習をし始めたって感じです。

大学時代に膝をやり、その後ヘルニア、そしてその時の血腫を取るためにもう1回手術と、人生で3回手術してます。まだ23歳なんですけど、結構壮絶(笑)です。でも鎖骨はまだ折ったことはないので、それは自慢ですね。

競輪学校に入ったのち、入れると思ってなかったんですがHPD※に入ることになりました。HPDに入らなければそのまま(オリンピックは)諦めていたかもしれないです。大学4年生の頃などは「またナショナルチームに入れたら」という気持ちはあったんですが、何もお話をいただけなかったので、半ば諦め状態だったし、さらにヘルニアもやってしまいましたし。

HPDに選ばれて、ブノワコーチに見てもらえる機会を得て、ナショナルへの道が拓けて、またオリンピックを目指すようになりました。

※HPD:ハイパフォーマンスディビジョン。自転車トラック競技(短距離)の強化育成のためのもの。日本競輪選手養成所内に設置され、ナショナルチームとも連携しながらHPDに選抜された選手の強化育成と、選手の発掘までを担う。

自転車を始めるまで、特別なアスリートではなかった

Q:自転車の前は何かやってましたか?

小学生の時に陸上教室みたいなものに通っていたんですが、朝が早すぎて諦めました。6時半とかに学校集合で、当時朝が本当に弱かったんですよね。それは足の速い人が強制的に入れられてたもので「入ったからにはやって欲しい」って学校の先生とかにも言われたんですが「無理です!」って、結局行かずに(笑)

小学校3年の時に水泳教室にも入ったんですが、僕は行きたくなかったのに親に勝手に入れられちゃったんです。「じゃあ25mプール泳ぎ切ったら辞めさせてあげる」って言われて、嫌すぎて1週間で泳ぎ切って辞めてやりました。その時のパワーはすごかったと思いますよ(笑)最初水に顔をつけるのさえ嫌だったのに猛練習して1週間で25mを泳げるようになりましたから。ただ後で分かったのですが、この教室は泳げるようになっても泳げなくても1週間で終了する物だったらしいです。親が僕にやる気を出させるためのトラップだったようです(笑)

周りと同じことをするのがあまり好きじゃなかったんですよね。だからもしそこで水泳教室が本物だったとしても、いずれは辞めてたと思います。

中学の頃は陸上でしたが、種目はいろいろやってました。800mとか1500mも走ったことはありますが、基本は100mか200mでした。リレーでは県大会に出ましたが、個人種目はダメでしたね。

何かのスポーツですごく成功したという経験は、これまでなかったです。

高校から自転車を始めましたが、高校の頃は成績が良くありませんでした。ハロン(助走を付けた200mタイムトライアル)も11秒7くらいしか出ていなくて、大学2年生の時にようやく10秒3が出ました。そこから本格的に日本代表というものを考え始た次第です。

家業の自動車整備工場を継ぐつもりだった