休みなく走り続けた5年間
「とりあえずは休みたいですね。先のことはまだしっかりとは考えていません」
オリンピックを終え、”この先”を聞いた時に出た答えは「休みたい」だった。 脇本はこの5年間を東京での”金メダル獲得”だけを目指して突っ走ってきた。 国際大会で結果を出し、いつしか日本国内では”最強”と称されるほどに走る力を上げた。 そして満を持しての東京オリンピックで、日本発祥のスポーツ“ケイリン”種目に臨んだ。
「1回戦はぶっちぎりで緊張しました」
6人1組で走るケイリン。1回戦は2着までが準々決勝に勝ち上がり、負けた選手は敗者復活戦へと回る中、1回戦を見事1着で勝ち上がった。脇本が緊張を口にしたことには理由があった。
「今回は『金メダルが獲れる位置にいるし、獲らなければいけない』という感情から来た緊張がありました。それは新田(祐大)さんも同じだったと思います」
自分は強い。金メダルが獲れる。己を信じることが出来たがゆえに、1回戦で取りこぼすなどあり得ない。それは、完璧に仕上がっていたからこそ感じる緊張。全てを懸ける準備が出来ていたからこそ感じる緊張だった。
2016年にはリオデジャネイロオリンピックに出場した脇本。しかし周りの選手の雰囲気に呑まれてしまい敗退した過去がある。
迎えた東京オリンピックでの1回戦。脇本はフィニッシュラインを1着で通過する。その瞬間には珍しくガッツポーズを見せた。
東京を目指した5年間、筆者の記憶にある限りでは最も力強く、最も格好良い脇本雄太がそこにいた。
アクシデントも含め”それがケイリン”
しかし続く準々決勝を勝ち抜くも、準決勝を6着として決勝進出は出来ず。最後の7-12位決定戦では1着となったが、最終結果は7位。 目標としていた金メダルを掴むことは出来なかった。
脇本の走りをテレビで観た方たちはもちろんのこと、特に現地で観た方たちには分かるはずだが、脇本は本当に強かった。メダルを獲ることが出来るレベルの走りを見せていた。しかし、それでも勝てないことがあるのがケイリンという種目であり、不確定な要素があるからこそ面白い種目でもある。
「アクシデントもあって勝ち上がることはできませんでしたが……『めちゃくちゃ悔しい』という気持ちもなかったですね」
※準決勝では相手選手の1人が走行違反をして脇本の走行を妨害した形になり、決勝へ勝ち上がることは出来なかった
清々しささえ感じる声でレースを振り返った脇本。
「要はやれることは全部やってきて、自分に不備は無い状態で、それで負けたのなら……いろいろなことが重なった結果がこれならば納得できる。そんな感覚です。『こうしていたら、ああしていたら』ということが思いつきません。改善すべきポイントがあれば『悔しい』と思うのでしょうが、それがありません。きっと何回同じ展開になったとしても、改善点はなかったと思います。
『初手が前で、あそこで内をしゃくられて(※)なかったら……』『この実力があるなら次もいける』などと言ってくれる人もいるのですが……ケイリンはそういうレースだから、何を言っても仕方ないんです。僕は自分にとって最も勝つことができる戦法を取っていました。あれより早く仕掛けていたら潰れていただろうし、仕掛けが遅かったら3番手くらいまで下がってしまったと思います」
※しゃくる:相手を内側から追い抜くこと。選手が外帯線の内側にいる時に、更に内側から追い抜くことは反則となる
「人生のピーク」があの日だった
フランス人のブノワ・ベトゥヘッドコーチが就任したのが2016年のリオオリンピック後。そして5年間にわたりブノワコーチの下で自分を鍛え続けてきた。もうこれ以上の自分は無い。最高の精神と最高の身体でレースに臨んだからこそ、結果を正面から受け止めることが出来、未練は残らなかった。
「限界まで達することができたと思います。僕にとっての『最高のパフォーマンス』を知ってしまいました」
「それを超えることは今後きっと無いし、いかにそこに近づけるかになると思います。だからこれから先『今は絶好調です』と言うことはないと思います。東京オリンピックの時と同じ境地に至ることは二度とないです。オリンピックはそもそも、そのような場だと思います。人生で一番のピークを持ってくるような……」
これ以上は無い。史上最高の自分を作り上げたからこその言葉だった。
では今後は?
「現役の競輪選手を続けていき、目の前のレースで1着を獲るだけです」
東京オリンピックという節目を経て、脇本雄太のオリンピックの頂点を目指す物語は幕を閉じたのだろうか。
ひとつだけ分かっていることは、競輪選手としての道は継続していくということだ。