永井清史 インタビュー

2/3 Page

スイスでの修行の日々

Track World Cup 2001

Q:WCC(=ワールドサイクリングセンター、スイス)に行って刺激的なことは何でしたか? ※高校卒業後スイスのワールドサイクリングセンターへ飛んだ※

まず、日本にない200mバンクで走れたことですかね。斜度は45度ぐらいあるのでゆっくり走っていたら転んでしまいます。最初は怖かったのですが、200mバンクのコーナーで掛かるGに耐えられるようになったら、250mバンクがとても楽に感じます(笑)

同期としては、後に北京オリンピックで2位になったロス・エドガー選手がいました。カタコトでしたが通じるものがありました。

Q:日本での生活との違いはありましたか?

食生活が違いましたね。昼はバンク内の食堂でしっかり食べていましたが、朝と夜はバイキング形式でパスタ・ポテト・パンなどの炭水化物ばかりでした。物足りなくて、日本からごはんとかレトルトカレーを送ってもらっていました。

Q:近くに売店はなかったのですか?

ないですね・・・標高1000mのところだったので、自転車かトロッコ列車で移動でした。食べ物も牛乳やチョコレートぐらいしか(笑)

※編集部注:WCCはスイスのエイグルにあり、周りが山に囲まれた・・・・・そう、アルプスの少女ハイジ的な場所に存在する※

一度は離れたナショナルチーム

Q:日本に帰国して競輪学校(現:日本競輪選手養成所)へ入学したとのことですが、スイス(WCC)と比べてどうでしたか?

スイスの方が自由で楽でしたね。食べ物はないけど(笑)日本は束縛が多かったです。

Q:アテネオリンピックには代表選手として選ばれませんでした。その時の心境は?

ショックでしたね。連盟の人が直接伝えに来てくれたのですが、タイムは出ていたので納得がいきませんでした。その時20歳だったから、信頼されていなかったのかな、とも思いました。

Q:永井さんにとってオリンピックとは?

WCCに留学して世界を体感したからこそ、世界のメンバーと走りたいという思いがありました。上には上がいるんで、外の世界を知りたいと思っていました。競輪よりも出たかったものです。

Q:2年ほどナショナルチームから離れた理由は? ※アテネ五輪後に一旦ナショナルチームを離脱した※

選考に不満があったのと、自転車競技を忘れたかったからですかね。でも2年経ったある日、当時の班目秀雄(福島・24期引退)監督から「もう1回やってみないか?」と声をかけて頂いたんです。それから熱が戻って来ました。2007年にはWCCの時にお世話になったフレデリック・マニェが日本の監督だったので、練習内容は合っていましたね。

北京、憧れのオリンピックの舞台へ

2/3 Page