東京2020オリンピック。それは1964年の東京オリンピックから57年の歳月を経て、新型コロナウイルスと戦いつつも実現した2回目の日本での夏季オリンピックとなった。
通常のオリンピックとは異なる状況の中、自転車トラック競技で挑んだ日本チームは梶原悠未が見事に銀メダルを獲得。この大会では数種目でメダル獲得が期待できるとまで言われていた日本チームは、2016年リオ大会後より始まった“改革”によってHPCJCと共に世界トップのレベルにまで上がってきた。
その理由とは?
東京オリンピックを戦い、世界に注目されるまでになったチームがどう成されたのか。選手目線で語られる「東京までに変わったこと」、そして「機材スポーツ」といわれる自転車競技が故の開発秘話。3話に渡るシリーズとしてお届けする。
※HPCJCとは『High Performance Center of Japan Cycling』の略。リオオリンピックの後、2020年の東京オリンピックに向けて始動した。日本自転車競技連盟(JCF)トラック競技強化指定選手のトレーニングセンターとして、世界選手権やオリンピックでのメダル獲得を目指してアスリートを強化、育成している。
全ては2016年から始まった
2016年10月ブノワ・ベトゥ短距離コーチが来日し、ここから全てが始まった。ブノワコーチがまず始めたのは選手のリクルート。その一番始めに声をかけたのが脇本雄太だった。脇本はリオオリンピックに出場したものの、結果を残すことは出来ず、東京2020オリンピックに向けて変化を求めていた。
「ブノワコーチが来て、拠点を伊豆に移すよう指示されました。そこから現在のナショナルチームの体制が出来始めました」
それまでは各自が拠点とする場所で独自にトレーニングを行い、合宿という名の下、月に1回集まって数日のトレーニングを行う。そしてまた各自でのトレーニングを各々の場所で行っていた。コーチと関わるのは、この合宿の時だけだった。
一方オリンピックで敵対する海外の選手たちは、フルタイムで働くコーチたちと共に毎日研鑽を積み、レースに挑む。日本の体制とは正反対のことを行って結果を出していたのが海外の選手たちだった。
そもそものやり方が間違っていた。ここからブノワコーチ、ジェイソン・ニブレットコーチを中心とした改革が始まり、脇本は伊豆に移住することを決意した。