オリンピックを語る熱量
新田祐大選手は現在31歳。企業人であれば若手、せめて中堅の年齢だが、年間1億以上の賞金を稼ぐ日本の競輪界を代表する男だ。
さらに自身でUCIトレードチーム「Dream Seeker」を立ち上げ、精力的にTVやイベント出演も行い、自転車競技を広めようと活動を行っている。まさに日本のトラック競技界を牽引する存在とも言える男、それが新田祐大。
彼がオリンピックを語るときにはいつも圧倒的な熱量を感じる。
何が彼をそこまで掻き立てるのか?それを紐解くため、まずは背景を訊ねた。
新田少年の心を撃ち抜いた、長野五輪の衝撃
表彰台へ上る喜びを知った
小学校4年生の時にマウンテンバイクで、自転車を始められたんですよね?
新田祐大選手(以下、新田):はい。マウンテンバイクは、その当時流行っていたのもあって、その名残というか、流行りにのってマウンテンバイクを買ってもらった時から始まりました。
たまたま始めた競技は、みんなでやるチーム戦エンデューロで、それが面白くて。その時、シャンパンファイトをやったんですよ。
シャンパンファイト?
入賞とか関係なしに、出た子供たちを集めて表彰台でシャンパンファイトをやったんですけど、それがなんか凄く楽しくて。で、そこから表彰台に乗る素晴らしさというか、喜びっていうものを感じるようになって。
ハロンの上を走るのが怖かった
その後、何かがキッカケでトラック競技が好きになったと?
僕は1kmタイムトライアルのスペシャリストになりたいと思ってずっとやってました。
なんで1kmだったんですか?
当時、競技の「ケイリン」は無くて。で、他にスプリントとかもあったんですけど、スプリントだと走路の上を走って急激に降りてくるハロンがあるじゃないですか。それがちょっと怖くて(笑)
で、スプリントはやったことなくて、タイムトライアルから入ったんです。そこで1kmタイムトライアルを測った時に何秒。次の年も出たら何秒って、タイムの差が分かって。だったら、それで1番になってみたいなって。
当時、全国大会や高校のインターハイで優勝した先輩が僕らの上にいたんですけど、その人が身近にいたっていうのが、さらに目指す目標にはなりましたね。
そこからマウンテンバイクは、もうやらなかったんですか?
全然やってなかったですね。マウンテンバイクをやっている頃、トライアスロンやロードレースにもマウンテンバイクで出てみたんですよ(笑)でも、自転車が違いすぎてついていけなくて。
それで親に「自転車を買ってくれ」って言ってみたら、自転車があまりにも高すぎて…。でも「自転車を買うんだったらしっかりやれよ」と言われ、本格的に自転車競技へ移った感じです。
きっかけがオリンピックだった
新田選手は様々な所でオリンピックへかける強い想いを発信されていますが、その原点は何でしょうか?
きっかけがオリンピックだったからです。
オリンピックを目指して「スポーツ選手になりたい」と思ったので、そこから目指すところがオリンピックにあり続けるって感じですかね。
冬季の長野オリンピックで各種目を見ていて、当時はスキーとかも僕はやっていたんですよ。なのでモーグルとか観ていたんです。それで「里谷多英選手が優勝した」とか、「スキージャンプが団体優勝」とか、そういうのを見ていて1番印象に残ったのが、清水宏保さんのスピードスケート。
確か、オリンピックレコードで優勝したんですよ。それを見た時「こんな格好良い競技があるのか」と感じました。
自転車競技とは関係なく、オリンピックという全てが凄く印象に残って。それを見た時「4年後が楽しみだな」って思ったんですよ。そしたら、夏もオリンピックがあるっていうのを知って。
なるほど(笑)
あと、アトランタの時からオリンピックにプロも出れる様になり、そこで初めて十文字貴信選手方が1kmタイムトライアルで銅メダルを獲ったんですよ。その映像を僕は見てなかったんですけど、オリンピックにも自転車競技があるっていうのを知り、そこが繋がって「じゃ、オリンピックを自転車競技で目指したい」ってなったんです。