【前編】「現実はオリンピックに出場できるか、できないかのレベル」沢田桂太郎選手インタビュー
棒高跳びから、自転車競技の世界へ
仙台で生まれ育ったのですか?
いや仙台の隣にある利府町という所です。まぁわかりづらいので「仙台出身です」って言ってますけど。
家族構成は?
父母、姉2人、犬1匹です。
小中学生の頃、スポーツは何をしていましたか?
小学校の時は色々なスポーツをやってました。水泳、サッカー、陸上、テニス・・・色々ですね。
全部それなりにできた?
運動神経が悪い方ではなかったので、ある程度全部できました。でも「県大会行きます」ってレベルではなかったですね。中学生になってから陸上部に入ってからは、けっこうしっかり部活をやって3年生の時には東北ブロック大会へ出ました。
種目は中長距離です。父親がトライアスロンをやってて、中長距離の家系だったんですね。なので僕もやっていたんですけど、あれキツいじゃないですか?(笑)
で、楽なのやりたいし、楽しいのがやりたいから高飛びに転向したんですよ。「僕、高飛びやりたいです!身長もあるんで」って。それが、そこそこ飛べたので、中2の時からは高飛びを専門にして、3年の時には県大会で4位に入り東北ブロック大会へ出れたんです。
でもそこで限界を感じました。「これを高校で続けても、大した成績残らないだろうな」って。それで自転車競技を始めたんです。
結果が出るから、ハマっていった
そこでなぜ自転車を選んだんですか?
なんか楽しそうだな〜って。父親がトライアスロンをやっているので、ロードバイクが身近にありましたし。
高校に入って本気でやるなら私立の方が機材も充実しているだろう、そう思って私立の高校を選びました。そしたら思った程良くなかったですね(笑)むしろ県立とかの方が良かったり。でも監督とかには恵まれたので、そのおかげで今があると思っています。
高校で初めて出場した種目はスクラッチで、そこで優勝?
そうですね。高校の頃は個人パシュートをメインでやっていました。個人パシュートを走れれば、短距離の1kmタイムトライアルも走れるから、最終的には短距離もイケるなって。なので高校の監督から「お前は体型的にも短距離じゃなく、個人パシュートだ」と言われ、個人パシュートをメインで走っていました。ケイリンとかにも出てましたけどね。
短距離種目の成績はどうだったんですか?
3年の時は宮城県じゃ負けなかったですね。まあ宮城県のレベルがレベルっていうのもありますが。県で言ったら20数人しか出ていないし。宮城県は自転車競技がそんなに栄えていないんです。
じゃあ、大会=県大会ってことですか?
そうです。他県も自転車競技はそうじゃないですか?むしろ県内に1つしか自転車部のある高校がない、そんな所とかもありますよ。
でも、僕は1年生の時にインターハイへ出れなかったんです。2年生の時に個人パシュートで出れたんですが、その時はボロ負けでした。僕はその時ブロック別の記録が1位で、その当時の全国ランキング1位。最終組のホームでスタートだったんですが結果は全然ダメでした。なんかテンパっちゃって・・・・・もうダメダメでした。舞い上がっちゃったんですかね。
でも3年生の時は優勝できました。
自転車競技の世界ではトップ選手でも「高校から始めました」って人がとても多いですよね。
多いですね。逆に小中学校からやってましたって人なんて3分の1くらいじゃないですか?あとはほとんど高校からとかだと思いますよ。
それですぐに全国大会で優勝したりしますよね。
根本的にレベルが低いんだと思います。競技人口のピラミットが小さいってことですよね。
でも「あ、この競技だったらイケるじゃん」みたいな人が増えれば、もうちょっと自転車競技自体が広まるから良い事ですよね。
太田りゆさんとかそうじゃないですか。競輪学校入って、ポンポンって行ったじゃないですか。1年ちょいで。そんな選手が沢山いますよね。
僕の場合はたまたま始めた自転車にハマったわけですし。最初は結果が出るからハマっていったんです。やっぱり結果が出たら楽しいじゃないですか?ただそれを繰り返して、ここまで来てるんです。あとなんか「日本代表」って響きがかっこいいじゃないですか(笑)
日本記録・アジア記録出しましたって事実は一生言えますしね(笑)
じゃあ元々自転車競技に興味があって始めた、という事ではないんですね。
選手とか全然知りませんでした。今でも選手の名前は本当に有名どころしかかわからないです。
想像していなかった今の立ち位置、でもオリンピックは目指していた
憧れの選手はいますか?
高校時代は橋本英也さんに憧れてました。英也さんは僕が高2の時、全日本選手権のチームパシュート、個人パシュート、マディソン、ポイントレースで4冠を獲ったんですよ。それで「めっちゃすごい人いる!」って憧れてたんですけど、今やめっちゃ身近な人になりました(笑)
当時、今みたいに目の前にいるなんて状況は想像はできていましたか?
できないですよ。でも高校の時から“オリンピック”は目指していたんです。オリンピックに出るためには、エリートで日本ナショナルチームの中距離に入るぞ、という風には考えていました。でも日本のトップ選手が身近な存在になるとは考えていませんでしたね。
でも、今やそのトップ選手の一員に自分も入っていますよね?
そうですね(笑)