自転車トラック競技日本ナショナルチームの中長距離メンバーであり、チームブリヂストンサイクリング所属。そしてシャッター業界最大手「三和シヤッター工業株式会社」の社員という顔も持っていた近谷涼。

2021年には「競輪選手」になるため、日本競輪選手養成所(以下:養成所と記載)に入所していた。

中野慎詞、ブリヂストン近谷涼ほか 日本競輪選手養成所121・122回生合格発表

無事迎えた養成所の卒業式は3月3日。その日、衝撃の事実が発覚した。

『ナショナルチームを辞めて、今後は競輪一本に絞ります』

撮影を行なっていたMore CADENCEスタッフは近谷より話を伝えられた。

決断に至るプロセス、今見えているもの、これからのこと。
近谷涼の「今」をお届けする。

幼少期からの夢が「競輪選手」

近谷涼, 卒業式, 日本競輪選手養成所(JIK)

Q:話を聞いた時、衝撃的でした。ナショナルを辞めようと思った理由はなんだったのでしょう?

「競輪をいっぱい走りたい、競輪のことだけ考えたい」というのが一番の理由でした。「中長距離はもう十分だとか、オリンピックを目指したくない」といったことではありません。今でも競技へのネガティブな感情はありません。

僕は元々子どもの頃から競輪選手になりたいと思っていました。高校卒業時にも一度競輪学校(現:養成所)受験を考えたものの、当時の僕はインターハイで2位や3位で、優勝の経験がありませんでした。それに日の丸を背負って海外で戦ってみたいという想いもありました。

競輪学校の願書を取り寄せてはいたものの、「国内で優勝する」「海外で戦う」の2つの目標も持っていましたし、その目標を達成できていませんでした。結果として、半年くらい迷った末に受験を見送りました。競輪学校は年齢制限もないですし、大学に進学して競技の目標を達成する道を選んだんです。そうしないと後悔すると思ったので。

競技に情熱を注いだ10年間

進学した先で、大学生の全国大会で優勝できたり、大学3年からはナショナルチームに加入して世界と戦ったり……目標は一応達成できました。大学進学において親と「教員免許を取る」と約束しており、その約束も果たしました。大学でやるべきことは一通り達成できました。

正直、大学の間は自転車競技に集中していたので、競輪からは少し心が離れていました。卒業が迫ってきて「就職しようか、でも競技も楽しいな……」と迷っているタイミングで、東京でのオリンピック開催が決まったんです。

自国開催のオリンピックなんて、きっと一生で一度です。「東京2020オリンピックで走ろう」と思って、競技に道を定めることにしました。

結果的に、東京2020オリンピックで走ることは叶いませんでした。それでも精一杯やりましたから、競技活動に悔いはありません。そこで改めて「競輪選手」を考え始めました。6歳でなりたいと思い、18歳で願書を取り寄せ、それでも選んでこなかった道ですが、28歳になっても心に引っかかっていたんですね。

このまま競輪を選ばなければきっと後悔する、そう思って受験を決めました。

全ての始まりは「競輪選手」だった

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